朝から晩までインターネットでニュースを見ていると、落語界にまつわるニュースも結構あるものだと感じた。と言っても私は落語を演るのが好きであって、じいさんが喋る落語を聞くのはそれほど好きではないので、こういう話題も詳しいことを知っているわけではない。あくまで、「この時期にこういうニュースがあった」ということを忘れないために書き記しているに過ぎないとご了承いただきたい。
三遊亭圓好さん死亡していた
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071029-00000058-mai-soci
今週の月曜日に載っていたニュースだ。「姿を見かけない」という近隣の住人の通報を受けて自宅を調べたところ倒れているのが見つかったのが26日。調べでは11日ごろ亡くなったらしい。「最近は体調を崩していた」とあるが、表舞台から去った噺家というのは死亡して2週間も見つけてもらえないというのか。「老人の孤独死」といったニュースを連想してしまったが、まだ58歳。残念なニュースだ。
林家いっ平、三平を襲名へ
ふーんそうか、程度にしか思わないのだが、「三平」を知っている世代にとっては大いに関心のある話題、特にすべての人がもろ手を挙げて賛成、とはいかない話なのだろうなというのは容易に想像できる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071031-00000022-maip-soci
私は昭和51年生まれ、「三平」も「正蔵」も知らない世代だが、過去の映像やら書物、それに自分より長く生きている人たちの話としてよく聞いている。彼の兄で、特にタレント色の強いこぶ平が正蔵を襲名するという時も多くの人たちから「器じゃないんじゃないの?」という声が聞かれた。テレビタレントとしてのみ登場し、たまにテレビで高座に上がったのをみたが「母親と焼肉を食べに行った話」をし出して大いに落胆させられたものであるが、正蔵の場合はテレビではなくて本当の高座を見ればそんな評価も変わると言っている。「まだまだ及ばないな」という声も聞かれたりするが、噺家で40代当たりはまだまだ発展途上、20年、30年先を見据えた長い目が必要だろう。
我々でわかる話に置き換えると、「若い選手がオリックスで51番をつける」ようなものだろうか?そもそも「襲名」というのが昔と今では捉え方が違うだろう。昔は家を継ぐ長男が父親と同じ名前を名乗ると言うことは珍しくはなかったが今はほとんどない。名前は「家」を表すものではなく「個人」のものだという考えなら、先人と同じ名前をつけること自体がなじまない。時津風親方が角界を追放されたのに、時津海が引退して時津風親方を名乗ると言うのは、現代の感覚では「何か嫌だな」となってしまう。それでも、そうしていかないと部屋が継承されないのだ。落語界の場合は相撲の親方とは違うが、前の時代から脈々と受け継いでいる「名跡」と言うものはいくつも存在しているが、「先代の印象が強いから、何も今継承する必要はないだろう」という考え方があるのだろう。しかし襲名のサイクルは必ずしも短くなっているわけではないだろう。よく考えて欲しい。戦前までは日本人の平均寿命は80歳を大きく下回っていた。つまり同じようなサイクルで襲名しても、平均寿命の長い現代の方がその期間が短く感じられてしまうのだろう。それに、誰かが継がなきゃ、名前の襲名は行われなくなる。全く縁のない人が継ぐよりは血のつながっている人が継ぐのがいいだろう。「○○と言えば○代目だよなー」といった評価は後のお客さんに任せればいい。悪いことをしなけりゃ、名前を汚すことにはならないでしょ。
三笑亭夢之助、敬老会で「手話気が散る」
31日のヤフーで見つけた。読売と毎日が報じているが、毎日新聞の記事が詳しく載っていた。それによると、島根県安来市主催の敬老会で、演者の横に立っていた手話通訳を話の中で「気が散る」と言って、主催者が手話通訳を舞台の下に移動させたという。その後、同県ろうあ連盟は「聞こえない人に対する侮辱」と夢之助さんや市に抗議。夢之助さんは謝罪し、市も当日来場していた聴覚障害者3人に直接謝罪したという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071031-00000020-mai-soci
記事にも書いてあるが、主催者が演者に対して、手話通訳がつくことを事前に伝えていなかったことがすべての原因だ。事前に伝えてあれば、「視界に入るとやりにくいので立ち位置はここにしてください」と言う事は出来たはずだ。夢之助の一連の発言は、「手話通訳は必要ない」「手話通訳は邪魔だ」といった意図のものではないと100%断言できる。「聞こえない人」や「手話通訳」に対して文句を言っているのではなく、「事前に手話通訳がつくことを伝えていなかった主催者」に対しての苦言であることは疑いようがない。記事中には「昨年の敬老会では漫才コンビ『宮川大助・花子』の花子さんが出演したが、手話通訳者は花子さんから『ありがとう』といわれた」というエピソードを掲載して、「それに対して心無い発言を繰り返した夢之助はひどい奴だ」とする意図が見え見えだが、手話通訳の立ち位置に関する感じ方も人それぞれ。そもそも、宮川花子さんが1人で出たならお客さんの反応を見ながらネタを振るトークだと想像できるのに対して、落語は「間」をとって時間と空間を演者がそこに作り出さなければならない。演劇のセットの中に手話通訳が立っているのと同じイメージだ。演劇だったらふつう舞台の外でやるだろう。真横に人が立っていたらやりにくいと感じるのは当然だ。そりゃ、中にはそういう場所での公演を多くこなしていて、横に手話通訳が立っていても平気な噺家もいるだろうが。
そもそも手話通訳って、何の打ち合わせもなく人の話を手話に出来るのだろうか。特に「落語」である。いくら手話でも噺家の一語一句をすべて手話で表現できるわけではないだろう。しかし、「オチ」につながる言葉がその前の台詞の中にさりげなく入っていて(ネタふり)、それが手話で表現されてなければオチを言ったときに理解されない、という事態は十分に考えられる。私も素人で落語をやるが、オチを言い終ったらその直後にサガリ(主に三味線で演奏される音楽)を流してもらい、それにあわせて高座を降りる。だから事前に「この言葉でオチになります」という事を、舞台袖で音楽テープを流してくれる人、もしくは演奏してくれる人に必ず伝える。まあプロで、高座に上がってから何の噺をやろうか決めるという場合はそんなことはない訳だが。
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